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フリードリヒ2世

18世紀後半のプロイセン国王。大王と言われた。オーストリアなどとオーストリア継承戦争、七年戦争を戦い、領土拡大に成功。プロイセン(後のドイツ帝国)大国化の基礎を築いた。また、典型的な啓蒙専制君主であった。

フリードリヒ2世

フリードリヒ2世

 プロイセン王国ホーエンツォレルン家の国王(在位1740~86年)。フリードリヒ=ウィルヘルム1世の長男。父王はプロイセンの軍国主義化を推し進め、王子フリードリヒに対しても厳格な軍人教育を施した。芸術や思索に興味のあった王子は、父に強く反発したが、父の死によって1740年5月31日に即位することとなった。 → ドイツ(4)
プロイセンの大国化 18世紀中期のヨーロッパの絶対王政国家が激しく競い合う中でプロイセンの大国化を目指して軍隊と官僚制の整備、重商主義経済政策、いわゆる「富国強兵」を推進した。特にシュレジェンをめぐってオーストリア継承戦争以降3度にわたって大国オーストリアマリア=テレジアと戦ってその地を獲得し、七年戦争では孤立しながら耐えてシュレジェンを確保、大国化の基礎を築いた。それによってプロイセンはヨーロッパでフランスと肩を並べる強国となり、ドイツ統一の主導権争いに優位な立場にたち、19世紀中期のドイツ帝国形成を主導する。その過程でフリードリヒ2世は「大王」と称されるようになった。
啓蒙専制君主として その一方、学問と芸術に励み、父が「兵隊王」と言われたのに対し、「哲人王」と言われた。フリードリヒ2世の最大の特徴は典型的な啓蒙専制君主とされることで、不十分とはいえ社会や政治の改革を進め、農民を保護し、宗教寛容令を出し、自らを「国家第一の僕(しもべ)」と称したり、ヴォルテールを招いて交流するなど、開明的な面をもつ近代的な君主であったことである。経済政策では重商主義の採用などもみられたが、基本的にはプロイセンは地方領主層のユンカーを基盤とした封建社会にとどまっていた。
ロココ時代の国王として またポツダムに自ら設計にあたって離宮サンスーシ宮殿を建造し、18世紀の文化様式であるロココ様式の典型的な建造物を残したり、自ら詩作し、フルートは作曲をするほど腕を上げるなど、文化的な君主であった。

フリードリヒ2世とその時代

 このような、強引にプロイセンの大国化を進めた絶対王政の君主としてのフリードリヒ2世と、啓蒙思想を持ち芸術を愛したロココ風のフリードリヒ2世を総体としてどのように理解すべきか、その生涯を見てみよう。<飯塚信雄『フリードリヒ大王』1997 中公新書などによって構成>

Episode 父に反抗したフリードリヒ2世

 父のフリードリヒ=ウィルヘルム1世は暴力的な国王であったが、その子フリードリヒは哲学を好み、フルートを演奏する穏やかな青年だった。若い頃、父の暴力に嫌気がさし、フランスに逃れようとしたが捕らえられ、同行した友人が目の前で処刑されるというショッキングな事件もあった。
(引用)18歳を迎えた年に、皇子のフリードリヒは父親のこうした厳格な軍事教練的教育の辛さと束縛から解放されたいと願って、ある親しい友人共々国外への逃亡を試みるのです。しかし、二人はすぐに国境沿いで兵士たちに捕縛されてしまいます。激怒した国王は、直ちに国家反逆罪の容疑者として二人に軍法会議への出廷を命令します。二人には、死刑の判決が下されました。しかし、処刑日の直前、フリードリヒには国王の恩赦による死刑免除が宣告されました。ただし、友人の処刑は予定通り執行されたのです。フリードリヒは、その一部始終を獄窓から直視しなければなりませんでした。深く心を許し合った友の処刑死と悲痛きわまるその目撃は、若くて繊細な、才能に満ちあふれたこのフリードリヒを大きく変えてしまいました。この時から、彼の人生は激変し、父親の指示や命令にも従順な青年となっていくのです。<マンフレッド・マイ/小杉尅次訳『50のドラマで知るドイツの歴史』2003 ミネルヴァ書房 p.131-132>

『アンティ・マキャヴェリ論』

 フリードリヒは即位の前年、『アンティ・マキャヴェリ。またはニコロ・マキャヴェリの君主についての批判研究』を公刊した。16世紀初頭のマキァヴェリの『君主論』を批判し、冒頭で「マキャヴェリは政治を腐敗させ、あつかましくも健全なる道徳の掟を踏みにじった」と断じ、権謀術数によって他国を征服することが君主の役目であるという思想を批判した。「国家の平和と福祉こそは、賢明な国家にとって中心となるべきものであり、国家のあらゆる外交交渉の目的であらねばならない」とまで言っている。また「良き戦争は良き平和を保証する。戦争はその補助手段であるに過ぎず、やむを得ない場合にしか行なうべきものではない。それが防衛戦争というもので、最も正当な戦いである」として防衛戦争以外の戦争を否定した。<飯塚信雄『前掲書』p.88-94

若き啓蒙主義の君主として登場

 先代のフリードリヒ=ヴィルヘルム1世は、文句が多く、杖でなぐって民衆を祈祷と労働へかり立てたので人気のない君主だった。1740年5月31日、新王となった28歳のフリードリヒ2世に対し、苦難に満ちた青春時代を知っている国民は若き「哲人」が即位したと歓迎した。
 新王は「国民と我らの利益が相反する時は、国民の利益が優先されねばならない」と訓示し、厳しい寒さで食料品の高騰に苦しむ人々のために国が備蓄していた穀物を安価で放出し、主要食料品にかけられていた間接税(消費税)も廃止した。さらに6月3日、異端審問の際の拷問を廃止する勅令を出した。大逆罪などを除いた拷問も含めて、1755年に廃止されるが、フリードリヒ2世はヨーロッパの君主で拷問という非人道的な裁判手段を廃止した君主となった。
 さらにフリードリヒ2世は「宗教はすべて寛容にあつかわれねばならぬ。浄福を得んがためには人おのおのの流儀あるべし」という宗教寛容令を発し、カトリックの学校の存続を許した。(フリードリヒ2世の宗教寛容令が出されたのは6月22日、ただしユダヤ教徒は除外された<岩波世界史年表>。)
 新王はまた、芸術や学問を排した父とは反対に、学芸の復興に努めた。啓蒙主義哲学者ヴォルフをハレ大学教授に任じ、かつてライプニッツの理念でたてられ、父王のもとで形骸化していたプロイセン科学アカデミーを、フランス人の数学・物理学者のモーベルテュイを招聘して再建を委ねた。この時期にベルリンで二つの新聞が発刊されたが、新王はそれに対して「検閲をしてはならない」と官僚に指示した。これらはベルリンを北方のアテネ、つまり自由な学芸都市にすることをすすめたヴォルテールの意見を取り入れたものと言われている。

オーストリアとの抗争

 即位直後にフリードリヒは、『アンティ・マキャヴェリ』で主張した侵略戦争の否定という自説に反する判断を迫られた。1740年10月20日、ウィーンで神聖ローマ帝国皇帝カール6世が死去したのだ。カール6世はこの時に備えてプラグマティッシェ=ザンクチオンを出し、長女のマリア=テレジア(この時23歳)がハプスブルク家領を相続することを各国に認めさせていたが、それを反故にようという動きがすぐに起こり、バイエルン選帝侯カール=アルブレヒトは帝位を要求した。
 フリードリヒ2世は、ホーエンツォレルン家はもともとオーストリア・ハプスブルク家の家臣格でプロイセン王国になったのもその保護の下で実現したことなので、正面から反旗をひるがえすことはできない。しかしチャンスが到来したことは間違いない、と判断したか、大胆な提案をウィーンに対して行った。12月9日、フリードリヒ2世はプラグマティッシェ=ザンクチオンは認める(つまりマリア=テレジアの家督相続は認める)が、その代わりにシュレジェンを頂戴したい、と申し入れたのだ。シュレジェンはハプスブルク家領であり、プロイセンには何らその領有権を主張する根拠はなかったので、これは女性君主の弱みにつけ込んだ力による侵略以外の何ものでもなかった。シュレジェンは現在のポーランド領。ハプスブルグ家領の中ではプロテスタントが多いという特色が有ったが、石炭など地下資源が豊かな地域であった。しかもウィーンからは遠く、ベルリンからの方が近い。
 この時点でのヨーロッパ情勢は、イギリスは1739年以来スペインと交戦中であり、またイギリスとフランスは新大陸やインドで激しく対立している。ロシアはアンナ女帝の死後、不安定な政治情勢が続いている。軍事力ではプロイセン9万に対してオーストリアはせいぜい8万、南方のオスマン帝国に備えて兵力を割けない情勢が続いていた。
 先王フリードリヒ=ヴィルヘルム1世は兵隊王といわれて軍備増強に努めていたが、実はそれは防衛戦のためで「息子よ、正義なき戦いを始めるな、侵略者となるな」という遺訓を与えていたのだが、フリードリヒ2世は防衛だけの軍隊では意味が無い、攻撃こそ最大の防衛である、と考えたのか、父の遺訓に背きオーストリア攻撃に踏み切る。

プロイセンの大国化

オーストリア継承戦争 1740年12月16日、フリードリヒ2世のプロイセン軍はシュレジェンへの国境を越えて侵攻を開始した。冬季の行軍は難航したが、オーストリア軍の抵抗は弱く、またプロテスタントの住民が歓迎するなかで、プロイセン軍は短期間にシュレジェンを占領、中心都市ブレスラウ(現在のブロツワフ)に入った。ハプスブルク家の弱体化を歓迎するフランス・スペインおよびバイエルン・ザクセンなどがプロイセンを支援したため、勝利することが出来た(第1次シュレジェン戦争)。1742年6月のブレスラウの和議で、オーストリアはプロイセンのシュレジェン領有を承認した。
 1744年、フリードリヒ2世は再び出兵した。それはオーストリアと防衛協定を結んでいるイギリスが出兵するのではないかと危惧し、先手を打ったのであった。イギリスは資金援助にとどまり直接出兵はしなかったので、ここでもプロイセンは勝利した(第2次シュレジェン戦争)。1745年12月、ドレスデンの和議で、オーストリアはシュレジェンの割譲を再び承認せざるを得ず、そのかわりプロイセンはフランツ(マリア=テレジアの夫)の神聖ローマ皇帝就任を承認した。
 このオーストリア継承戦争は、1748年10月18日、オーストリア・プロイセン・フランス・イギリス間の国際的な講和条約であるアーヘンの和約が締結されて最終的に終結した。結果的に、プロイセンはシュレジェンを獲得し、オーストリアはその地を失ったものの、マリア=テレジアのハプスブルク家の家督相続・夫フランツの皇帝即位は認められたこととなったが、マリア=テレジアにとってはシュレジェンの奪回は次なる国家課題となり、プロイセンとの対立はヨーロッパ各国の利害の中の対立軸へと深化していく。
七年戦争 フリードリヒ2世を「シュレジェン泥棒」と呼んで激しい憎悪を抱いたマリア=テレジアはシュレジェンの奪還をめざして、フランスとの提携に転換する外交革命を実現させ、さらにロシアとも結んでプロイセンの国際的孤立を謀った。その情勢に対してフリードリヒ2世は、先手を打ってオーストリアを攻撃し、七年戦争(1756~63年、第3次シュレジェン戦争とも云う)となった。
 この戦争ではフランス、ロシア、オーストリアとドイツ領邦の大半がオーストリア支援にまわり、プロイセンはわずかにイギリスの支援を受けるだけであったため、当初は苦戦となり、1759年8月のクーネルスドルフの戦いでは大敗し、一時はベルリンも危機に陥った。フリードリヒ2世は最高司令官として果敢に指揮に当たり、形勢の逆転を待っていると、ロシアでエリーザベト女帝が死に、代わって皇帝となったピョートル3世は熱狂的なフリードリヒ崇拝者であったため軍事行動を停止し、1762年にプロイセンとの講和に応じた。さらに英仏植民地戦争でフランスがイギリスに敗れる情勢となったため、攻勢に転じ、1763年フベルトゥスブルク条約でシュレジェンの領有をオーストリアに認めさせるなど有利な条件で講和した。
フリードリヒ2世とジャガイモ フリードリヒ2世は農民の生活を安定させるため、ドイツ南西部で栽培され始めたジャガイモに着目した。その普及が農民を救い、ひいてはプロイセンの国力強化につながると直感し、植え付けを奨励するだけでなく、種芋を無料配布して植え付けから収穫までを見張り番や兵士に厳しくチェックさせた。七年戦争の始まった1756年には「ジャガイモ令」を発布し、小冊子を配って栽培を強制した。プロイセン兵が食料としたジャガイモは、七年戦争で交戦したスウェーデンへに伝わり、北欧でも広く栽培されるようになった。フリードリヒ2世が奨励したジャガイモ栽培は、戦争をつうじて北欧に広がったのでこの戦争はジャガイモ戦争と呼ばれた。<池上俊一『森と山と川でたどるドイツ史』2015 岩波ジュニア新書 p.97>
第1回ポーランド分割 1765年、神聖ローマ皇帝フランツ1世は死去したが妻のマリア=テレジアは健在で、二人の間の子のヨーゼフ2世が皇帝の地位を嗣いだ。ヨーゼフ2世は母の反対を押し切り、フリードリヒ2世と会談、勢力の均衡を図ることで合意した。一方、ロシアのエカチェリーナ2世もフリードリヒ2世の同意を得て新たなポーランド王を選出させた。1772年、三国は秘かにポーランド分割(第1回)に合意した。このときプロイセンは、東プロイセンとブランデンブルクの間の西プロイセンの地を獲得し、ここに東西に分断されていたプロイセン王国の領土が地続きで一体化された。これはプロイセンがヨーロッパの大国になる上で重要な要素となった。
バイエルン継承戦争 ヨーゼフ2世とはフリードリヒ2世の晩年にもう一度、戦争となった。それはバイエルン継承戦争と言われ、1778年にバイエルン選帝侯が後継者のないまま亡くなったとき、ヨーゼフ2世か継承権を主張した事に対し、フリードリヒ2世が出兵してそれを阻止したことであった。ヨーゼフ2世が、かつてのオーストリア継承戦争の逆を仕掛けたわけであるが、自重したヨーゼフ2世が兵を引き本格的な戦争にはならなかった。このとき、両軍兵士はにらみ合うだけでヒマだったので、互いに戦場でジャガイモを栽培して食べていたので、こちらも「ジャガイモ戦争」と言われている。ジャガイモの普及にはフリードリヒ2世が深くかかわっていたわけだ。

Episode フリードリヒ2世と3人の女性の闘い

(引用)時々、フリードリヒ「大王」と呼ばれるが、隣人たちはおそらく、そう呼ばなかったろう。彼は46年に及ぶ統治のほぼ全期間を、三人の女性に対する闘いに費やした。一人は、彼が「教皇の魔女」と呼んだマリア=テレジア(オーストリア)であり、二人目は「北方の山猫」と名付けたロシアのエリザヴェータ、三人目はルイ15世の愛人、ポンパドゥール夫人(フランス)である。フリードリヒはポンパドゥール夫人を、母親が魚売りの女だったという理由で、「マドモアゼル・ポアソン(魚)」と呼んで軽蔑しきっていた。<リケット/青山孝徳訳『オーストリアの歴史』1995 成文社 p.57>
 ここに出てくるロシア女王エリザヴェータはピョートル大帝の娘でエカチェリーナ2世の前の代の女王、父にまけない啓蒙専制政治を行った。ポンパドゥール夫人はフランスとオーストリアの接近を取り持ったともいわれるのでフリードリヒから見れば好ましくない存在だった。なお、フリードリヒ2世は隣国のマリア=テレジアからは「シレジアの強奪者」「下劣な奴」「怪物」「醜悪な隣人」「サンスーシの隠者」と罵られている。<同上書 p.58>
※ただし、ロシア女王エリザヴェータは1762年に、ポンパドゥール夫人は1764年に亡くなっているので、1786年まで在位したフリードリヒと最後まで張り合った女性はマリア=テレジア(1780年に死去)だけである。

啓蒙専制君主

 彼はフランスの啓蒙思想家ヴォルテールとも親交があり、啓蒙専制主義を採用して「君主は国家第一の僕(しもべ)」と言ったが、その本質はプロイセンのユンカー階級を基盤とした封建制の上に絶大な権力を行使した専制君主である。ベルリンの郊外ポツダムの離宮に、ロココ美術の代表的建築であるサンスーシ宮殿を建造した。オーストリア継承戦争が事実上終わった1745年から、七年戦争のはじまる1756年までは束の間の平和な時期であったが、戦争の出費は国庫を圧迫していた。その中での離宮建設は大きな制約を課せられることとなった。

フリードリヒ2世(右)とヴォルテール
フリードリヒ2世(右)とヴォルテール
ヴォルテールとのまじわり  また学問ではヴォルテールに自ら手紙を書いて教えを請い、論文『反マキアヴェリ論』を書いて献呈した。ヴォルテールはその書を、君主の書いた最良の書として絶賛したが、その中でフリードリヒはマキャヴェリの権謀術数を否定し、君主は人民に対する第一の僕にすぎない、と論じた。1750年には自らの宮廷のあるポツダムの郊外の無憂宮(サンスーシ宮殿)にヴォルテールを招いている。その親交は親密であったが、ヴォルテールは次第に弟子としての謙虚さと国王としての尊大さを使い分けるフリードリヒに嫌気がさすようになり、二人は些細なことからけんか別れをしてしまい、ヴォルテールはパリに帰る。
フリードリヒの開明性  啓蒙専制君主としてのフリードリヒ2世の開明性は具体的にはどのような点にみられるか。一つは、法の重視であり、国王と言えども恣意的な統治を行うのではなく、法に従った統治を行うという姿勢に現れている。もう一つは宗教的寛容であり、「わたしが元首として統治するプロイセン王国においては、そこに居住するすべての国民が、自分自身の宗教信条に基づいて生活することが許されている」と彼自身が言っている。
 また、フリードリヒ2世は、“言論の自由の保障”や司法手続きの合理化と拷問の廃止、『プロイセン一般国法典』(1794年)に結実する統一法典の編纂などを行っている。
 フリードリヒ2世は戦争の勝利だけではなく、これらの開明性によって生前から国民によって“偉大なプロイセン王”と尊敬をもって語られたのだった。ただし、国民はあくまで“臣民”であり、それぞれが“身分制秩序の中での応分の責任と義務”を遂行すべきであるというのが大前提であった。
フリードリヒ大王の世紀 哲学者カントはフリードリヒ2世の統治の晩年にあたる1784年、『啓蒙とは何か』を著し、啓蒙専制君主の役割を論じた上で、同時代のフリードリヒ2世を「啓蒙されつつある時代」の君主であるして、 次のように評価している。
(引用)現状から見て、すべての国民が宗教的な問題において他者の指導なしに、みずからの理性を確実かつ適切に行使できるか、あるいはそれに近い状態になっているかと問うてみると、まだ多くのことが欠けていると言わざるをえない。しかしその方向に向かって自由に進むための場は既に開かれているのであり、全般的な啓蒙を進めるための障害物、すなわち自ら招いた未成年状態から脱出する際の障害物が、次第に減りつつあることを示す明確な兆候がみられるのはたしかだ。こうしてみるとこの時代は啓蒙の時代であり、フリードリヒ大王の世紀なのである。<カント/木田元訳『永遠平和のために/啓蒙とは何か』2006 光文社古典新訳文庫 p.21>

Episode サンスーシ宮殿と粉やの親父

 ホーエンツォレルン家のサンスーシ宮殿の周辺に拡張工事が必要となった。その土地には製粉業を営む男の仕事場と家があった。拡張工事の邪魔になったが、粉やは立ち退きを拒否した。そこで宮殿関係者は粉やに脅しをかけ、土地を没収しようとした。この時粉やは次のように反論した。
(引用)「もちろん、国王陛下は、わたしからわたしの所有地であるこの土地や仕事場を召し上げることなぞ、いつなりと、またご随意におできになるでしょう。わたしもあえてそれに異を唱えることはいたしません。けれども、それはあくまでも、ベルリンの法廷が裁判を通してこの一件を合法的措置だと判断し許可を与えれば、の話です」<マンフレッド・マイ/小杉尅次訳『50のドラマで知るドイツの歴史』2003 ミネルヴァ書房 p.138-139>
 フリードリヒ2世は粉やのこの反論を耳にするや、彼の言い分の正当性を認め、土地の強制没収の対象とせず、処罰も一切なく、家業の継続を認めた。これはフリードリヒがいかに法を尊重したかを示すエピソードとしてよく知られている。もとになった話は『ドイツ炉辺ばなし集』岩波文庫にとれている。 → サンスーシ宮殿の項を参照。
重商主義政策 フリードリヒ2世はまた、前代から続き、国土開発と入植政策、マニュファクチュアの育成と貿易振興などの重商主義政策を進めた。具体的には、オーストリア継承戦争の後、オーデル川流域の潅漑と開発を行い「平和裡に新しい領邦を一つ獲得した」と誇った。またオーデル川とエルベ川を結ぶ運河の開削も行われた。国家事業として行われた開発には、国外からの入植者が充てられた。<坂井榮一郎『ドイツ史10講』2003 岩波新書 p.111>

音楽家フリードリヒ

 フリードリヒ2世が青年時代から音楽に親しみ、特にフルートは玄人の域にあり、作曲も能くしたことはよく知られている。彼の作曲したフルート協奏曲は現在も演奏会でとりあげられるほど、完成度の高いものである。その一部を次できくことができる。 → フリードリヒ2世作曲のフルート協奏曲

参考 フリードリヒ2世の「伝説」

 フリードリヒ2世は、プロイセンから発展して1870年代にドイツ帝国が成立すると、その基礎を作った偉大な国王として「大王」といわれるようになった。そして20世紀には第一次世界大戦から第二次世界大戦の時期、ヒトラーもドイツの栄光の時代を築いた「フリードリヒ大王」を英雄として崇拝した。その過程で、フリードリヒにまつわる様々な「名君伝説」が作られていった。そして戦後はその反動で、悪役として描かれるようになった。私たちもそのような20世紀の眼で見てしまいがちだが、実際のフリードリヒ2世は、国際的に評価が高かったわけでもなく、民衆から「名君」とみとめられていたわけでもなく、また一面的な侵略者だったわけではなかった。

(引用)(フリードリヒ2世が)「デア・アルテ・フリッツ」(フリッツ爺さん)の愛称で呼ばれた「名君」にまつわるこうした伝説は、プロイセンがドイツ第一の大国にのし上がり、ドイツ帝国となった19世紀のうちに作り上げられた文字どおりの「伝説」にすぎない。その「伝説」が災いして、20世紀も終わろうとする今も、フリードリヒは相変わらず悪役を演じさせられている。1991年8月17日、フリードリヒの遺骸は、バーデン・ヴユルテンベルク州にあるホーエンシュタウフェン家の城からポツダムに里帰りすることになった。第二次世界大戦のあおりをうけて遺骸が傷つくことを恐れたドイツ政府によって他の安全な場所に移された後、1952年以降は、ホーエンツォレルン家の城に安置されていたのだ。ヒトラーが政権をとったあと、大王の墓に参拝したことも、戦後のマイナスイメージを強めた。野党の社会民主党は、「統一ドイツがプロイセンの伝統に無批判に連なると誤解を外国に与える」ことを恐れて里帰りの式典への参加を取り止めた。死後二百年たった今も、遺骸が鞭打たれなければならないほど深く、フリードリヒはドイツの戦争犯罪に加担していたのだろうか。<飯塚信雄『フリードリヒ大王』1997 中公新書 はしがき
 そこで飯塚信雄氏は同書で、作られた大王像ではなく、素顔のフリードリヒ大王を同時代史料を元に再構成しようとしており、父王との関係や友人との交流、ヴォルテールとのやりとり、そして女性関係━当初から大王は同性愛者ではないかと見られていたがその真相は? など興味深い分析を展開している。